お知らせ・コラム
ヨーロッパ散策記③ -ベルリン編-
GW中に、フランクフルト(ドイツ)→プラハ(チェコ)→コペンハーゲン(デンマーク)→ベルリン(ドイツ)と旅行をしてきました。行った街が気に入ればよし、気に入らなければ次の街/国へ、というスタイルの1週間でした。最終回は「ベルリンの壁」を見に行った話です。
ベルリンに到着。まずはSIMカードを買いに行く

デンマークを出て、ベルリンに着いたとたん、スマホの通信ができなくなりました。デンマークで購入したSIMは、容量もまだまだ残っているし、ドイツでも使えるはず…。
SIMを新しく買う前に、ダメもとで、TRAVELEXという総合旅行代理店の窓口に聞いてみることにしました。
けれども、「このSIMが使えないんだけど…」と聞き始めた途端、
“I don’t know! I don’t know! Buy new one!”
アクリル板越しの窓口にいたドイツ人らしき若い男性は、へらへらしながらそう言葉をかぶせてきました。そのまま見向きもせずにスマホをいじっています。カーッときましたが、怒ったところで意味もなし。しかし、ここでは絶対に買わん!
近くの雑貨屋にもSIMの看板があったので、店番のドレッドヘアの男性に同じ質問をしてみます。すると、スマホの設定を見てくれて、3G回線ではあるものの、ネットにつなぐことができました。
” Are you Japanese?” そう聞かれ、Yesと答えると、突然その男性は指を折り曲げながら
「イチ、ニ、サン、シ…」
少し悩んで「ゴ!」と、にかっと笑いました。昔学校で少し日本語を習ったそうです。
さっきまでの嫌な気分は消え去り、お礼を言って飲み物やら軽食やらを買い、空港の外へと出ました。
ベルリンの壁へと向かう
宿にチェックイン、荷物を置いて、早速電動キックボードでベルリンの壁のイーストサイド・ギャラリーへと向かいます。途中でユダヤ人のホロコースト記念碑を見つけました。
記念碑の正式名称は「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」。
大小さまざまな石碑が並び、決まった順路はなく、奥に進むにつれて圧迫感を感じ、先のほうを人が通ったかと思えばスッと消えていき、やがて通り抜け、ひらけた風景にホッとしました。不思議な空間でした。


この石碑は2005年に、賛否両論と紆余曲折の果てにパブリック・アートとして完成したそうです。
ベルリンの壁に、日本語を見つける。
1961年、ドイツは資本主義の西側と社会主義の東側に分断されていました。経済的に停滞していた東ドイツから、裕福な西ドイツに移動したがる国民を止めるために、ベルリンの壁は作られたのです。
壁は1989年に崩壊し、翌年東西ドイツは統一されます。今なお残るベルリンの壁のイーストサイド・ギャラリーは全長1.3km、ズラーッと様々な絵が描かれています。
その中に、日本語が書かれている絵があって驚きました。アジアに強い興味を持っていたクリンゲンシュタイン氏は、
どのような壁でも乗り越える価値があること、そして異文化とかかわる重要性に気付いた経験が、この作品を描くきっかけとなった
ベルリンx東京 友好都市締結30周年記念 https://www.young-germany.jp/2024/05/berlin-tokyo-30jahre/
と言っているそうです(※)。






ドイツビールを飲んでいないじゃないか!
ベルリンの壁を見た後に、宿に戻ってからふと、ビールを飲んでいないことに気づきました。せっかくドイツに来たというのですから、一杯くらいは試してみたい。そう思って、宿の近くの酒場を検索し、評判のよさそうなところに向かってみます(本当に便利な世の中になったものです)。
入ったのは、20人くらい入れば満席になりそうな、あまり大きくないバー。にぎわっています。
カウンターに空席がありました。50歳くらいのドイツ人の女性が静かに飲んでいる、その隣。
静かに、というのが間違いだったことは座って10秒後にわかりました。
通りがかった、知り合いではなさそうな20代くらいの男性にドイツ語で何かをべらべらとしゃべり、その男性は”Sorry, I can’t speak German…”と困惑しています。それでも女性の一方的なおしゃべりは止まりません。
”I can’t understand, sorry.”
そう言って男性は逃げるように自分の席へと戻っていきます。
若造め。
女性はくるりと向きを変え、据わった眼でこちらを見ると、やはりドイツ語で威勢よく話しかけてきました。
「●▽★×※§ΘΠ! ΣΦδДЮ!?」
「いやほんとにさあ、宿の枕が硬くて。きついんだよね」
そう返すと、女性はちょっと面食らった顔をしました。
もちろんこちらはバリバリの日本語埼玉弁です。以前ウズベキスタンに行ったとき、現地の若者はウズベク語、こちらは日本語で30分以上の会話(?)をしたことがありました。
言語が通じるかどうかは大した問題ではないのです。
「ぐっすり眠れるかどうかは、ベルリンを楽しめるかどうかにもかかってくるわけよ。どうしたらいいかな?どう思う?」
さらに畳みかけます。
女性は、Oh…Ah…といったあと、にっこりしながらバンバンとこちらの肩をたたき、
「δДΠΔΘ!」
と嬉しそうにしていました。意味は分かりませんが、楽しそうなのは確かでした。
その後、その女性のコップを指さしながら、マスターに「同じのください(日本語)」と頼み、「これおいしい!!」と連呼して女性に「オイスィ」を覚えてもらってから、1時間くらい酒を酌み交わしました。言葉は一切通じていませんが、コミュニケーションは取れていました。
しばらくすると、女性は英単語一つ一つを、小石を置くようにゆっくりと、話してくれました。残念ながら、酔っていて何を言っていたのか一切覚えていないのですが…。
ちょっとうとうとしてしまい(海外のバーでうとうとするなんて本当は厳禁ですよ!!!)、ハッとすると、女性はさっきの若い男性に再び絡みに行っていました。これ以上飲むと二日酔いになりそうだ。そう思って、宿へと帰りました。
お土産にテディベアを買う

表情が違う
さて、翌日はベルリン最終日。夕方のフランクフルトからの飛行機に乗るためには、お昼ごろにはベルリンを出なくてはなりません。お土産を買う最後の時間なので、急いで店を回ります。ドイツはテディベア発祥の国なので、お土産も充実していました。一番表情の柔らかいぬいぐるみを選んで、家族へのお土産にしました。
ベルリンからの列車は、少しでも疲れを癒そうと特別席を予約していたのですが、間抜けなことに車両番号を逆から数えていて、乗車時間の半分以上は一般席に。途中で気づいて移動しましたが、そのころには食堂車は料理はみんな売り切れだしで、散々でした。そしてこの時、何か体に違和感がありました。
地獄の十五時間の始まり
列車はほぼ定刻通りにベルリン中央駅につき、飛行機にも十分に間に合う時間。免税店を覗きながら時間を待ちます。
しかし、なんだかちょっと、おかしい。体の調子が万全じゃない気がする。
本格的に体調が悪くなったのは、飛行機が離陸してから10分ほどたった頃でした。指先や唇がしびれ、猛烈な吐き気が襲ってきます。10年前にネパールで食中毒になった時と全く同じ症状でした。トイレに駆け込みたいのですが、まだ離陸直後なので席を立つことはできません。耐えることしかできない。昼食のスープだろうか…。それとも朝に食べたサンドイッチ?
考えても仕方ありません。その後、日本までの十五時間ほどを戦い抜くことになりました。
思い返せば、1週間ちょっとで3か国を巡り、フランクフルト→プラハでは深夜バスにも乗り、ゆっくりした日はほぼなし。強行軍で体力が限界だったのかもしれません。次に海外に行く機会があったら、もっとゆっくりと一つの街にいたい。そんなことを思いながら、命からがら帰国したのでした。
そんな旅の終わりでしたが、終わってみればやっぱり楽しかったです。
知らないものを見に行くのは楽しいものです。当たり前の流れに乗らず、ちょっと変わったことをすると、面白いことが起きたりもします。犬も歩けば棒に当たる。
生徒の皆さんも、もう少し大きくなったら海外に出てみてもいいかもしれませんよ。何か面白いこと、忘れられないことが起きるかもしれません。(くれぐれも、危険は避けるように!!)
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