お知らせ・コラム
受験と神様の話
いよいよ入試本番です。今回は私の大学入試の話を枕に、受験と神様の話をしたいと思います。
大学入試で神頼み
高校3年生の私が東大の本郷キャンパスに願書を提出した日の話です。途中で小さな神社を見つけた私は、神様に手を合わせてこんなお願いをしました。
「神様、ぼくは東大を受験します。自分一人の力で合格しますので、絶対に手助けしないでください」
いやあ、ひねっくれたガキですね。かわいくねー。でも、せっかく合格しても、あとで神様に「あれはワシのおかげなのじゃよ」とか夢に出てこられてもウザいじゃないですか。もっとも神様のほうも「言われなくてもお前なんか助けんわい」という気持ちだったと思いますが。
しかし、このお願い、我ながらなかなか本質をついていたように思います。
日本の神は荒ぶる神
神様に対して「やってください」ではなく「邪魔しないでください」と願うのは、実は神道における伝統的な神様とのつきあい方です。
例えば、家を建てるときに行う地鎮祭は、土地の神様に対して「ここに家を建てますが怒らないでくださいね」とおことわりをするものです。
この「荒ぶる神を鎮める」という発想は、「受験の神様」とされる天神様・菅原道真がそもそもそうなのです。道真は政敵・藤原清貫に妬まれ、無実の罪で九州の大宰府に追放されます。道真の死後「清涼殿落雷事件」が発生し、清貫が焼死。これが道真が怨霊となったためだと信じられ、その怒りを鎮めるために神として奉られたのが天神様です。
神様とのつきあい方
私の場合「合格しますように」ではなく「合格します」と断言したのもよかったようです。一般に、絵馬などに願いごとを書くときは「予祝」といって願い事が実現した形で書くほうがよいとされます。
「お賽銭」というのは本来、米などの収穫物の一部を神様に捧げたものです。「おかげさまで今年もこんなに収穫できました」という感謝を伝えるもので、将来の収穫を祈願するものではありません。
個人的には日本の神様に対しては「お願いする」のではなく「一言話を通しておく」ぐらいの感覚でつきあうのがちょうどいいのかなと思います。
他の宗教ではどうでしょうか。
キリスト教の有名な「主の祈り」には「御心が天に行われるとおり、地にも行われますように」という一節があります。これは「神の正しい意志がこの世界に実現しますように」という意味です。「神の正しさ」に対する絶対的な信頼と降伏を表すもので、個人のもつ願望などは考慮されません。
日本人はえてして、宗教の目的は現世や来世の利益だと考えがちで、神様に対しても「合格祈願!」「商売繁盛!」「恋愛成就!」などと願い事をあからさまにぶつけます。しかし、これは普遍的な宗教意識ではないんですね。
宗教から受験へ
さて、宗教がもっていた「物事の正当性を担保する力」の一部は、近代になると受験(学歴)システムに取りこまれることになりました。
宗教と受験に共通点があるのはそのためです。修行は勉強になり、聖典は参考書になり、聖職者は教師になり、神の救済は志望校への合格になりました。
ただ大きく変わったのは、人間の運命を決めるものが、神の教えではなく個人の努力・能力になったことです。近代になり、人間は宗教共同体から解放され、自分の人生を自由に決められるようになりました。
しかしその結果、個人はたった一人の力で世界と対峙しなければいけなくなりました。そのために自分の能力を磨くこと、すなわち勉強が必要になったのです。

受験は孤独
山口誓子の句に「学問のさびしさに堪え炭をつぐ」があります。東京帝国大学の学生だった誓子が試験を前にして作った句です。「学問はさびしい」のです。
受験というのはこの近代の思想を忠実に具現化したものです。それが本当に正しいかはさておき、「能力」というものが共同体にではなく個人に所属していると考えるのが近代なのです。
そういう意味で、当時の私は「個人の能力」という近代の思想を完全に内面化しており、だからこそ合格できたという面もあったのでしょう。
ということで中学3年生のみなさん、受験当日、試験を受けるのはあなた一人です。誰も助けてくれません。しっかり準備してください。しかし、だからこそ、今自分を支えてくれている家族や友人の存在に感謝してください。もちろん、我々萌学舎の教師全員も最後までみなさんを支えるつもりです。
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